七、 自己と人生 前にも言ったように、信は生の最後であると同時にまたその第一歩である。信は内に自己の生命に 帰ると共に、外へ向かってはあらゆる客観界の上に自己みずからを実現せんとしつつあるものである。 しかしてこの信の二面は、同時に自己そのものの上に具現しつつあるので、内に向かっての帰命は、 そのまま外に向かっての自己実現であらねばならぬ。私はこれまで内的の生について主に語った。そ れゆえ、これからさらに外的の生について、私達は如何に生くべきであるかということを少しく述べて見 たいと思う。 私達の外的生活はすなわち主観客観対立の生活である。ここでは、その主観がすなわち自己であっ て、客観のすべては人生そのものと見ることが出来る。もとより人生という語の内には、自己もまたその 一部分として含まれているのである。けれども今はしばらく自己と人生と相対せしめて、自己に対するそ の他のすべてを人生として考えて見たいと思うのである。 私達は、じっと静かに自己を環境の中において考えてみると、自分は全く環境によりて造られたもので あるように感ずる。この場合、自己は全く大きな人生という一つの実在の内に没入して、何等独自の存在 を認むることが出来ない。そこには、ただ偉大な自然の理法のみが働いていて、自分はその一つの波に しか過ぎないように考えらるる。私達は、こうした感によって、全く自己を忘るることが出来る。あたかも 空を仰いで無限の蒼空に溶け込んだときの気持ちのように、あるものはただ大なる宇宙の理法のみで あって、自己はただその宇宙の脈拍を静かに伝うるのみである。私は全く宇宙の生命の中に生きてい るように思わるる。そこには自分の力というものは少しも感ずることが出来ない。そして虚偽、擾乱<じょうらん> の生というようなものは、影だも認むることが出来ずして、すべてが静寂にして真実なものばかりである ように感ぜらるる。けれど私は、いつまでも長くこうした心境に止まっていることは出来ぬ。私は猛然とし て覚醒する。私の自己は激しき力を以て、こうした境地に反抗する。私の自己は飽くまで自己を主張し ようとする。 なるほど、自己がすべての環境によりて造られていることは事実であろう。あらゆる外的の事象の影響 を受けて生起したものであることも争われない事実であろう。けれど、よし自己が如何に造られ如何に起 こったにしても、すでにそれが存在する限り、自己は飽くまでも自己であらねばならぬ。生起の理由は、 決してそのものの性質を滅ぼす理由とはならない。 自己の特質は、それが能動的たるところに存する。自己は常に統一の主体たることを要求する。自己 は人生のすべてに自らを実現して、それによりて人生を統一せんとしているのである。人生の意義はただ 自己を自己たらしむることによりて初めて定まるのである。 しからば自己は如何にして人生に自らを表すことが出来るか。 それは単に自己を主張することによってではない。またすべてを自己のために利用することによってでも ない。それは人生を所有することによってでもなければ、また破壊することによってでもない。自己はただ 人生のすべてをして、各々それ自らたらしむることによって自己みずからを表す。換言すれば、人生をして 真の人生たらしむるところに、自己は真実の自己を実現するのである。 私達は通常、自己を客観に対する主観的のものとして、何等かの型の中にはめて考えているところから、 ややもすると、その考えられたる自己の概念を以て、すべての外界を統一しようとする。そしてこの自己の 概念によりて外物を支配するところに自己のあらわるるように思っている。けれど、これは非常な間違い である。私達は決して斯くすることによりて真実の自己を完成することは出来ないものである。かくのご とき自己の概念を中心として、すべてをそれに従えようとするのは、いわゆる誤れる個人主義である。 個人主義によりて自己を救われずしてかえって自滅する。主観としての自己を客観に対して極端に主 張するということは、主観そのものの破滅を意味する。何となれば、主観の成立は客観の成立を俟って 初めて可能であるからである。故に真に自己に生きんとするものは、まず主観自らの内に生きなければ ならない。換言すれば、自己は自己の内生において自らの生命に生きなければならない。私達は、自己 の内生に生きることが深ければ深いほど、外に向かって客観を尊重するようになる。自己の愛は同時に 他の愛である。自己のみを愛して他を愛せずというものは、真の自己を愛するものではないのである。 何となれば、自己は外面的には、他が他たることによりて初めて自己が自己たることを得るからである。 言葉を換えて言えば、主観としての自己は、客観としての事象を各々真実の事象そのものたらしむるとこ ろに、自己みずからの生の実現があるからである。例えば、親は子を自分の心のままにあらしむることに よって自ら生き得るのでなく、子をして真の子自身たらしむることによりて親自らの生の満足があるように、 また師は弟子を全然自己に服従せしむることによって生き得ずして、弟子をして弟子自らに成効せしむる ところに師の自己実現が完成せられるように、私達は人生のすべてに対して、何ものをも自己によりて 傷つけることなく、各々それ自身たらしめるところに、自己みずからの実現を認むることが出来るのである。 この意味から考うると、古聖が水一滴も紙一片をも無駄に捨つることをせずして、すべてを活かして働か すように心懸けられたというようなことは、些細なことのようではあるが、真に生活の本義を体得した 行為であると思う。孔子が仁と言ったのも、畢竟ずる所この意に外ならぬのである 真の道徳はこれより外には無いだろうと思う。道徳法と言えば、何か客観的にそうした法則が定めら れてあるように思うのは、もとより誤解である。真の道徳は生命の道でなければならぬ。内なる自己の 生命が、自己の環境を通じて表現して行くところに、そこに道徳律があらわれているのである。故に道 徳律は始めから定まっているものではない。生命の辿り行く足跡、それがすなわち道徳律である。 けれど、もしその生命の道は如何なる性質のものであるかと言うならば、それは自他のすべてを生 かすことであると答えざるを得ない。私は大乗教における菩薩の生活において、これが最も高調せら れてあるのを見る。菩薩は具には菩提薩埵と言って、大心有情または覚有情と訳する。生に覚醒した る人を言うのである。大乗教にありては、菩薩の生活を説くに自利利他円満ということを言っている。 自利利他円満とは、自利すなわち利他の生活を言うのである。菩薩にありては利他の行が直ちに自 利の行であって、菩薩の自利はそれが直ちに利他である。声聞縁覚の二乗は、自利と利他とを差別 的に考えているから、たとえ自利に向かっても、それは真の自利ではなく、畢竟自己破壊に外ならぬ。 また利他と言っても、自利にあらざる利他であるならば、それは決して真の利他とは言われぬ。菩薩 は真に自己を愛するが故に同時に他の衆生を愛し、他の衆生を愛し利益することによりて自己みず からの生を実現すると言うのである。 けれども、ここに反省すべきは私達自身の生活である。私達は、現にかくのごとき生活をなしつつ あるであろうか。前にも言ったように、私達は常に概念的の自己に囚えられているが為に、まことの 自己の生命に生きることが出来ないのである。徒に客観に対して主観の自我を主張せんとして焦っ ているのである。名誉と言い、利益と言い、すべてそれらは真の自己の為のものではない。私達は 徒に自我を主張することによって、かえって真の自我を失っている。かくのごときところに、如何にし て真実の生活がなされ得よう。私達は人生を思う前に、まず自己に帰らねばならぬ。私達は利他に よりて自利を成ずることよりも、まず自利によりて利他を成ずるの道に立たなければならぬ。私達に とりては、常に現実の生活を反省して自己の内生に生きることが、すなわち人生に生きる所以である。 徒に外面の生活によりて内面の充実を得ようとするのは、全く本末を転倒せるものと言わねばな らぬ。如何に外面の生活が道徳的規律的に為されたからといっても、もし内部に生命の自覚が欠 けていたならば、それは畢竟、傀儡的行為に過ぎないものである。かくのごとき行為に対しては、 ややもすると外的報酬を求むるの念が伴うて、かえって自己の本質を傷つけるようなことになりや すいものである。真実の行為には、決して報酬を求むるの念があってはならぬ。真実の行為は、 行為それ自らにおいて価値があるので、決して他のものによりてその価値が定まるのではない。 何となれば、物そのものの価値は外的に与えらるるものでなくて、内的に所有しているものである からである。私達は通常、物の価値を定むるのに、他のものとの関係を尋ねて、その上にその物 の価値を付するのであるが、かくのごとくして付せられたる価値は相対的の価値であって、物その ものの真の価値ではないのである。すべての物は、物自らの内に絶対の価値を有していなければ ならない。特に生命の表現たるべき生活上の行為においては、すでに行為するというそのことが 生命の本願力より必然的に生じたものであるから、生の意識の内に、すでにそれ自ら独立の価 値が認められてあらねばならぬわけである。それゆえ、もし私達が自分のなした行為に対して、 何等か他に報酬を求むる心が起こった場合には、すでにその行為は、私達自身の生の行為でな かったことを証明する。生の行為は飽くまで絶対であるべきである。 私達は徒に生活の形式に囚えられてはならない。生活の意義は生活の形式よりも、むしろその 中に盛られたる内容の如何に存する。換言すれば、その生活形式を借りて表現せられたる生命 そのものにあるのである。もし私達の生活が、真に自己の生命を遺憾なく実現し得たものでさえ あったならば、その形式の如何を問わず、それは私達自身にとりても人生一般にとりても、この 上もなく価値あるものとなるのである。生活がそれ自身において価値あるものであったならば、 私達はそれによりて苦しむことも悲しむこともいらないわけである。他人がそれを価値ありと認 めてくれようがくれまいが、そんなことはどうでもよい。私達はただその生活そのものの内に満 足することが出来る訳である。他人の思惑を顧慮したり、結果の損得を考えて事をなすがごとき は、生活を一種の方便としているので、全く生の本義を失ったものと言わねばならぬ。私達は常 に生活を何かの為にのみしようとしている。各々自分の職業や境遇から割り出した幽霊のような 本尊に仕えて、ああしなければならぬ、こうしなければならぬと言って苦しんでいるのも、畢竟、 内に生の充実を欠いているところから起こっているので、知らず識らずのうちに生を方便視して いるのである。生は決して何ものの為であってもいけない。生はそれ自身において絶対なもの であるべきである。私達はまずこの点において、生の革命を叫ばねばならぬ。生をして内に充 実せしめよ。まことの生命の上に立たしめよ。自らの価値を自覚せしめよ。かくて真の宗教は起 こり、真の道徳はあらわるるであろう。 もとより真の生活は何ものかの為になってあるには違いない。否、それは、実に人生をして向上 し発展せしむる唯一の力となっている。けれど、それは生の絶対的価値の上にのみあらわるる結 果であって、生の目標として持ち来らるべきものではないのである。個人の生の向上発展の外に 人生の向上発展はあり得ない。私達はまず、あらゆる為という観念から離れて、自己の生活をして それ自身の価値の上に築き上ぐることに向かって努力しなければならない。あらゆる外的束縛か ら離れ、方便的観念から脱して、それ自身の生命を実現せしむるように努めねばならぬ。かくて初 めて生は意義あるものとなり、人生はまことの光を放つであろう。 |