八、 生活の努力 以上極めて抽象的ではあったが、生が如何なる意義のものであるかについては、大体述べた つもりである。そこで今、私は終わりに臨んで、私が外的生活に対する態度に関して一言申して おきたいと思う。 私は生命を表現するものとしての生活は、それ自らにおいて芸術的であらねばならぬと思って いる。生活は如何なる形式にあっても、それ自らにおいて直ちに生命の表現だとは言われない。 生活が生命を表現する為には、生活が芸術的に営まるることが必要である。生活は常に生命 のために創造せらるべきものであって、生命はその創造せられたる生活によりて実現せらるべ きものである。それゆえ、生活を離れた生命の表現は不可能であるが、さればとて、生活が直ち に生命だとは言い得られない。生活はむしろ形式の創造において意義があり、生命はその生活 の内容として、生活そのものを生かすところに初めて意義があるのである。 この意を明らかにするために、ここに画家の例を引く。画家が一幅の画を描こうとする場合、 彼はまずその描かんとする画を想像する。かくして彼は頭脳の中においてすでに完全な画を 所有する。彼は全心の努力を以てこの自己の内なる画をそのまま外面に現そうとするのである。 彼が筆をとって描くところの画は、ことごとく彼の創作であって、彼はこの創作の努力の内に生き て行くのである。けれどこの場合、彼によって描かれたる画は、彼の内にあっても外にあっても、 それは決して彼自身ではない。彼は飽くまでも描かんとする彼自身である。彼は何故にかかる 画を描かんとするのであるか。彼はこの画によって彼自身を実現せんとしているのである。彼の まことの自己は、内にありては常に何物かによりて外的に表現せんとしつつある意力である。 彼はこの意力に促されて彼の画を創作する。ここに初めて彼の自己は外部に実現するのである。 画そのものに即してではあるが、しかし画とは全く離れて、画以上に実現しているのである。それ ゆえ、私達は画を見ることによって、彼の生命に触れることが出来るのである。生命の実現と いうことは、これによって味わうことが出来るであろうと思う。私達は全力を尽くして自己の生活 を創造しなければならない。そしてそれによって自己の生命を永遠に実現しなければならない。 単に画の為に画を描く画家が真の芸術家でないように、単に生活の為の生活をなす人は真の 人ではない。私達は真の人たらんが為には、常に内に不断の生命を自覚してあらねばならぬ。 内なる生命は、不断に私の生たらんとする意願力である。それは私の生となることによりて私 の生活を意義づける。私はかかる生命の意願力に帰命し随順して私の生活を営んで行くところ に、初めて人としての価値を得るのである。 生活ということになると、無論そこにはいろいろな問題が起こって来る。けれど、私達は決して かくのごとき問題のために囚われてはならない。すべての問題をことごとく生の為のものたらし むることが必要である。もし少しでも外的な問題に自己が囚われるようなことがあれば、自己は 自己としての価値を失ってしまう。それゆえ、生活は飽くまでも、絶対的にそれ自身の内的意義 においてなさるべきものである。例えば、商業などについて見ても、それは決して金銭の為にな さるべきものではなくて、やはりその仕事によりて自己が自己の生命を実現する為のものとして、 初めて意義があるのである。たとえ如何なる職業にもせよ、人生のすべては、生命実現の為の ものでなくては意義はない。豆腐屋が豆腐を売って歩くのも、彼は単に肉体を持続せんため、 パンを得るため、金銭のためというようなことであったならば、それは人としての生活とは言われ ないのである。彼は豆腐を造りて、それを他の人々の需要に応じて配頒することによりて、彼自 身の生を実現すべきである。彼はかくのごとき生活をなす為には、当然パンと金銭とを要する。 肉体の持続ということは、生命表現のためには欠くべからざる要件であるからである。それゆえ、 彼は彼自身の生活に忠ならんが為には、当然他の人々に対してパンと金銭とを要求しなければ ならない。この意味において、彼に与えらるる金銭はことごとく彼の生の為のものである。もしそう でなかったとしたら、単に彼の肉体を持続するというようなことは、人生にとりて何等の意義もない ことである。また私達にしたところで、彼から豆腐を買うことが単に自分の味欲を満たすというだけ の意味であるならば、それは何の価値もないことだと言わねばならぬ。人生は決してしかく無意義 なものではないのである。私達は各自が天から受け得ているところの、まことの魂によりて、各自 の真生命を永遠に実現せんが為に、各自の生活を出来るだけ完全に営んで行くところに人生の 意義があるのである。私達はかくのごとき意味においてのみ各自の生活を尊重する。そして互い に他の生活を尊重し助けて行くところに、私達の生活が開かれて行くのである。私達にとりては 他の生命を実現せしむることが、同時に自己の生命を実現することである。ここに生活としての 人生の愛が成立する。たとえ、少しも他人の生活の助けをなすことが出来なかった場合でも、 真に自己の生に忠実なる人であったならば、その人は自己の生を成ぜんが為の需要を他に 向かって要求することは至当のことである。私達はまた、かくのごとき人に対して施しをなすと いうことは、それが直ちに自己みずからの生の実現であって、たとえその人からは何等の報酬 をも受けなくとも、ただ施したことだけにおいて、自己の福徳を成じている訳である。私は、釈尊 が自分の弟子に対して仏道修行をなす為に托鉢の生活を許し、そして托鉢は在家の人々に対 して福徳を与うることであるとなし、在家の人々は仏弟子に物を布施することによりて無量の功 徳を得ると教えられたのは、誠に深い意味のあることだと思うのである。 私達はたとえ一人であっても、その人をしてまことの生に救うことが出来たならば、それは大 なる福徳であって、私達はそれによりてまた自己の生の救いを味わうことが出来るのである。 何となれば、私達には、他人の生を尊重することは、それが直ちに自己の生を尊重することで あるからである。自己の生を尊重することなしに、他人の生を尊重するということは、私達には 出来ないことである。私達は他人の生を尊重する念の起こった場合には、必ずそこには、自己 の生に対する尊重の念が起こっている。自分では他人の生として見ているつもりでも、必ずや それによって自己の生に目覚めさせられているのである。 要するに、私達は人生をして真生命表現の道場たらしむべく努力しなければならない。徒に 主義主張に囚えられて闘争を事とするのは、自滅の道である。まことの魂の世界には、ただ一 つの道があるのみである。そこには、すべての魂が同一念仏に生きているのである。如来本願 の光に溶け合うているのである。 いかに生くべきか 終 |