六、    帰命の信仰



 生の根本的統一力に対する欲求、これ実に人間至深の欲求であって、この欲求を満足せしむるものが

真の宗教である。宗教とは畢竟、真実なる生の道に名づけられた言葉に外ならぬ。

 宗教を単に生活の為の方便とのみ見る人は、まだ真実に宗教を解した人ではない。宗教は人生の為の

道具ではなくて、人生そのものであらねばならぬ。真の人生がすなわち真の宗教である。

 今日では、さまざまな宗派がある為に、宗教もまたいろいろあるように思うている人があるかも知れぬが、

それは非常な間違いである。宗派によりて宗教が語られるのは当然なことであるが、しかしそれかと言って、

宗派が真に宗教であると思ってはならない。もしその根本的の意味から言えば、宗派は同じく真実の道を

辿らんとする人々の結合せる団体であって、その各々の人々の生そのものが、すなわち宗教であらねば

ならぬのである。それゆえ、私達は、単にある宗派に属したからといって、それで宗教を有しているとは

言われない。私達は銘々自身の生の上に真実の宗教を実現しなければならぬのである。

 何れの宗派にありても、開祖その人は、決して何れの宗派にも囚われた人ではなかった。古来、真に

宗教的偉聖と言われているほどの人は何れも皆、すべての慣習的成立的なる概念的束縛から脱して、

自己一人の生の上に独自の生命を実現した人であった。それ等の偉聖が人々に教えたところのものは、

もとより各人が自分と同じく、各自みずからの生命の上に蘇生せんことであった。彼等は決して自分が築

き上げた生の宗教の範疇の中に、他の人々を無理に押し込めようなどとは夢にも思わなかった。如何に

自己の生が光あればとて、それを以て他の人々の生を束縛するということは、全く生の道に反したことで

ある。師は弟子を従えることにおいて師ではない。師は弟子をして自らを殺さしむることにおいて初めて

師である。弟子はまた、単に師を尊崇して、師の言葉を従順にそのまま守ることにおいて弟子ではない。

弟子は師を殺して自らに生き得たことにおいて初めて真の弟子と言い得る。法然聖人に対する親鸞聖人

は、実にこの意味において真に法然聖人の弟子であった。親鸞聖人は決して文字通りの意味で、法然聖

人の相承者ではなかった。彼は法然聖人によりて初めて自己みずからに生き得たことにおいて、真に法

然聖人の教えの相承者であり、弟子であった。しかして聖人が初めて創立した浄土真宗は、実にこの意

味において、法然聖人の真意があらわされたものであって、それは決して服従的弟子を求むるの宗教で

はなかった。「親鸞は弟子一人も持たず」とは、聖人が常に口にされた言葉であった。弟子を有せざる宗教、

これ実に各人が自己みずからに生きる宗教である。師に囚われず、教えに囚われず、社会に囚われず、

思想に囚われず、すべての束縛から脱して、自己本然の魂に甦る宗教であった。あらゆる雑行雑修自力

の心をふりすてて、ただむずと本願真実の霊能にのみ救わるる宗教であった。「弥陀の五劫思惟の本願

をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり」。聖人の宗教は実に一人の宗教であったのである。

聖人は、聖人自身の如来を聞き、聖人自身の為の本願に触れて、聖人自身の生に甦られた。しかして

聖人は聖人自身のごとく、すべての人々が自己みずからの生に甦らんことを期待された。かくて浄土真

宗は開闢<かいびゃく>せられたのであった。

 親鸞聖人の信仰は帰命の二字に尽きている。聖人は自己久遠の生命たる如来の本願力に触れて、こ

こに帰依信楽の生活を実現したのである。しかしながら、聖人の帰命は畢竟聖人の帰命であって、私達

の帰命ではない。聖人は聖人の生命たる如来に帰命し、私達は私達自身の生命たる如来に帰命するの

である。私達は聖人が帰命されたが故に帰命するのではない。帰命は生命の道なるが故に帰命するの

である。

 しかるに、ここに一つの問題がある。それは古来仏教における多くの偉聖が、何れも私達がよりて以て

救わるべき生命の法を自己の心であると表白しているのに、今私は何が故に親鸞聖人に随って「如来の

願心」という文字を使ったかということである。これについては、私は理論を以て答うることは出来ない。た

だ私の生命感の上に、この「如来の願心」という文字が生きて動いているからである。私にとりては「自分

の心に生きる」ということは単に説明上の文字で、まことの生命に生き得た感をそのまま表白した文字で

はない。私は自分の生命の動きをそのまま表白したならば、「如来の願心に帰命する」という語が最も適

切であることを感ずるのである。

 私をして真に生きしむるところの生命、私の生の全体をして意義あらしむるところの生命、それは未だか

つて私が触るることの出来なかったところの生命である。しかも今現に私の心の内に初めて動き出した生

命、私はこの生命の力に私の全生を帰命せんと欲するのである。私はかくのごとき帰命の心において、生

命を直ちに私の自己なりと観ずることが出来ない。私の自己は帰命の主体である。生命は帰命の客体で

ある。すでに帰命の感には、帰命するものと帰命さるるものとの二つの対立が含まれている。この場合、

私の自己は常に帰命の主体として感ぜらるる。帰命は私が生命に生き得た味わいである。ここにも私を

生かすところの生命そのものと、生かされたところの私の自己との相対がある。帰命はまた生命の回向

である。かくのごとき生命は何処から私の内に与えられたのであろうか。私は未だかつて、かかる生命力

の実感に触れたことがなかった。しかるに今、私は自己がまことの生命の上に生きつつあることを自覚する。

かかる生命が果たしてもとから私の内にあったものか、ただしは今初めて現れたものか、それは私にはどち

らであってもよろしい。ともかく私はこの生命を久遠の生命として感ずる。私はただこの生命に帰順すること

によって初めて生きるのである。もとよりこの生命は私の生命である。けれども私はこの生命に帰順しなけ

れば、私の生に生きることが出来ない。私は帰順の主体において、自己を感ずる。しからば生命そのもの

は私を救うものであって、私の自己そのものではない。それゆえ、私はかかる生命を以て直ちに自己の心

であると表白することが出来ないのである。

 生命と言ったからとて、何でもないもののように思うてはならない。私にとりて真実の救い主であり親であ

るところのものがこの生命である。私にとりては、この生命ほど尊いものはない。世界の何物にも代えられ

ぬ唯一無価の宝はこの生命である。しかもそれは現に私の心の内に来現して、私の全生を救済せんとする

一大意願力である。私はこれを「如来本願の力」と呼ばずにはおられない。私はかつて清澤先生が「私をし

て私たらしむる能力(生命力)の根本本体が私の信(帰命、随順)ずる如来である」と申された語に、最も深き

共鳴を感ずるものである。

 かく言えばとて、私の内に如来と私との二個の異なった実在があるというのではない。現に実在するものは、

ただ私の生のみである。それはすなわち帰命の生である。このただ一つの帰命の内に、如来と私とが動いて

いるのである。あるものはただ帰命の一であるが、それを概念によりて分かつとき、それは如来と私との関係

であるというのである。それはちょうど私達の生活において、実に存在するものは生活だけであるけれども、

それを私達は思想によりて主観と客観とに分析して考えているのと同じである。例えば、私が花を見た場合に、

私達は通常、私という一実在が花という他の実在を見るのだというように考えているが、それは私達が後から

思考の力によりて分析してそう考えるので、真に実在せるものは「私が花を見ている」というそのことだけで

ある。それは私でもなければ花でもない。私と花との関係における一つの実在である。親が子を愛するとい

う場合について見ても同じことで、人間の心に子というものが生まれたとき、自分は親となって子を愛する。

また親より生まれた自分は子となって親を愛する。この場合、親を離れて子があるのでもなく、子を離れて

親があるのでもない。けれども私達はこの自分の内に生きている子や親をそのまま愛することは出来ない

からして、客観的に存在する––実はそれによりて内なる子や親が生じたところの––肉体の上に投射して愛

するのである。それゆえ、普通には子と親とを肉体的に考えて二つの別な実在のように思うている。けれども

実は決してそうではなくて、二つは全く同一の心の上に生きているのである。二つが同一の心の上にあると

いうのは、二つのものが別の存在として、一つの心の上にあるという意ではない。真に存在するものは二つ

の関係として見られている愛の心である。愛の心を思想的に分析するとき、親にありては「親が子を愛する心」

であり、子にありては「子が親を愛する心」である。実際、親や子が生きているのはこの愛の世界であるので

ある。親や子が真の実在でなく、この愛の生こそ真の実在と言うべきものである。

 かくのごとく、私達が真に生きる天地は–すなわち生そのものは、単なる一でもなければ、単なる二でもない。

それは一が二として互いに一に動いて行くところに生存の意義があるのである。生は外面的には主観客観

の分裂となり、内面的には自己と生命すなわち我と如来との分裂となりて働く。しかしてその二が互いに交

渉して行くところに生の進展があるのである。もし主観が単なる主観となって客観を失したとき、主観その

ものの存在はなくなる。それと同じく、自己が単なる自己のみであって、生命の如来を有せなかったならば、

自己そのものの生は実現の可能力を失うてしまうのである。私達は今日まで、単に主観客観の世界にのみ

生きていて、自己と如来との世界に生きることを知らなかった。それゆえ、私達の生は単に外面的の生のみ

であって、内面的の生ではなかった。私達はただ生の一面のみに生きていて、生の全分に生きることが出

来なかった。外面の生は内面の生によりて初めて価値を有するものであるのに、私達は内面の生を有せな

かったが為に、生の全分を殺していた。私達はただ内面の生に生きることにおいて、初めて全分の生に生き

ることが出来るのである。

 内面の世界は信の世界である。故に信は自己と如来との対立であらねばならぬ。自己が如来を認むこと

において信は成り立つ。信の世界において自己は如来に帰命するのである。今まで私達は、ただ外界に対

してのみ自己であって、内面的には自己ではなかった。今や外面的の自己は内界に如来の出現を迎えて、

初めて真の自己となったのである。

 自己と如来との交渉において、如来は私に対しては、真に私を救わんとする本願の意力として働き、私は

如来に対しては、ただ信順帰命の態度に生きるのである。この態度の上に、私は生の第一歩を踏み出す

ことが出来る。この場合、私の生は全く如来の賜物である。如来願心の実現、それが私の生である。

 故に親鷥聖人は自己の信念をさして、ことごとく如来願力の回向、仏心の顕現なりと釈し、帰命の心を

直ちに「本願招喚の勅命なり」と言って、「本願や行者、行者や本願」、我と如来と、如来と我と、機法一体、

仏凡不二の真実生の妙趣を頭示し給うたのである。親鸞聖人にとりては、実にかくのごとき帰命の信念こそ、

絶対無二唯有一道の真実生であったのである。

 馬鳴が自己の生命たる法をさして、直ちに衆生心なりと言ったのは、恐らく仏教全体の思想を代表した

ものであろう。馬鳴はこの立脚地に立ってすべての現象を説明せんと企てたけれど、その説くところはこ

とごとく思想的の範囲を出づることが出来なかった。馬鳴の信念はかくて遂に馬鳴の哲学であった。けれ

ど馬鳴においてもその衆生心は決して馬鳴の現実の心ではなかった。故に馬鳴はその衆生心の義を説

明するに当たりて、体大の上には真如と言い、相大の上には如来蔵と称している。しかしてこの如来蔵の

真如が現実の心の内に顕現して生の救済の作用をなすとき、その作用そのものは決して自己の心では

なかった。馬鳴の言葉によれば、それはすなわち真如内薫の力であった。この意によれば、馬鳴がいわ

ゆる衆生心はすなわち如来蔵の心であって、如来蔵の心はすなわち如来本願の心に外ならぬのである。

 その他「自性清浄心」と言うも、「見性成仏」と言うも、畢竟それは単なる説明の語にしか過ぎない。親鸞

聖人は信を説明する人ではなく、信を表白する人であった。信の哲学は信の説明者によりて成し遂げらる

るかも知れない。が、信の宗教は信の表白者でなければ顕示することの出来ないものである。信の哲学

者の苦悩は、理の証悟にある。しかれども、信の宗教者の苦悩は、生の表現にあるのである。

 私は親鸞聖人の信の表白において初めて真実なる生の内容の明らかにせられたことを歓ばずにはおら

れない。