五、   信仰の内容



 宗教においては、常に信仰ということが談ぜられるが、信仰とはそもそも何を言うのであろうか。

学問上から難しく言ったならば、そこに種々な説もあるであろう。しかし要するに、信仰とは生命の自覚に

外ならぬのである。それはすなわち魂の目覚めである。自己が自己の本質に生き得たことである。久遠

の自我の実在に触れたことである。本然の自我の復活である。純真の霊の回向であり、生の救済である。

それゆえ、信仰は生の理想であると共に、またその出発点であらねばならぬ。

 通常、信ずると言えば、何かあるものに対して、確実なる知的判断をなすことか、あるいはそれが知的に

知られざる場であろうか。私達は「火は熱い」ということを信じている。しかしながら「火が熱い」ということの

信は、まだ一度も火合、盲目的独断的にその確実を承認することのようにも考えられているようであるが、

信は果たしてそういう意味のものに触れたことのない人と、すでに火に触れてみて、その熱いということを

直接に経験して知った人との間においては、非常の相違がある。未だ一度も火の熱い経験を有せずして、

単に他人の話や、あるいはその他の自己の経験から割り出して「火は熱い」ということを信じている人は、

単に知識によってのみ信じているので、そういう知的に得られたところの信は、あるいは他の知識と矛盾

衝突した場合には、その人の信は変わるかもわからない。しかし、自ら実際に火に触れてみて「熱い」と

知った人の信は、如何なる場合にも壊れるということはない。たとえ知識の上では如何にそれが破壊せら

れても、理論上ではどんなに矛盾していても、実際火に触れた時熱いと感じたその経験だけは、何物も破

壊することは出来ないのである。事実の経験は、理由によって変ぜらるべきものでない。経験は何物に

よってでもなく、経験自らにおいてすでに確実なものである。

 勿論このことも、哲学的にもっと深く考察して行く場合になると、経験そのものと、それによって起こされた

私達の信との間には矛盾があって、「火が熱い」という経験と「火そのものが熱いものである」ということとは

同一でない。「火が熱い」という経験は、その場合私達がそう感じたということだけのもので、それ以外にま

でその確実性を及ぼすということは出来ないものである。ある場合「火が熱かった」ということは、単にそれ

だけにおいては真実であるが、それを以て直ちに一般に「火そのものは熱いものである」と信ずるのは間

違っている。「火が熱い」ということは、私達はいつも火について熱いと感じたということだけにおいて真実で

あって、それ以上の意味において真実であるのではない。かようにだんだん深く考えて行くと、私達が通常

信じている多くの事柄は、ずいぶん不確実なものとなって、どれだけにおいて私達は真実を語ってよいかわ

からなくなるけれど、そういう問題は今はあまり必要がないからやめにして、もっと他の方面から信ということ

を考察してみよう。

 そもそも、仏教においては、これまで信をどういうように取り扱っているか、それから考えてみたいと思う。

 仏教では「信は澄浄を義となす」といって、私達の心王、心所、すなわち心のすべてを澄浄ならしむるもの

であると解釈されている。言葉を換えて言ってみると、私達の心そのものが全く澄みきって、清浄不穢の状

態になったところを信というのである。これは余程面白い解釈であると私は思っている。

 全体、心とは何をいうのかというに、仏教の説によれば、心は能縁の作用に名づけたもので、一切万象の事

と理とを如実に写し取る作用を有するものが心である。しかるに能縁と所縁とは、その体全く別であっては能

所の関係は成り立たぬ。能所はもと一体不離のものであって、能の外に所はなく所の外に能はあり得ないの

である。不離一体なものが離れて二と相対するところに、宇宙があり人生があるのである。子を愛する親は、

愛する心の前にまず愛せらるべき子を有しなければならぬ。親の能愛の心は、所愛の子の所有によりて初め

て可能となるのである。親は自己の心の内に有する子を客観的に愛しているのである。ちょうどそれと同じく、

所縁の一切万象は、もと心そのものと別体に存在するのでなくして、心の本体と等しき本体のうちに存在の

理由を有するものである。それゆえ、所縁の一切万象は、能縁の心に如実に縁ぜらるることによりて、初め

てその存在の意義と価値とを表し、能縁の心は、所縁たる一切万象を如実に縁取することにおいて、初めて

その作用を満足するものだというのである。

 しからば私達は、現在一切の万象を如実に縁じつつあるであろうか。これが問題である。私達は決して然り

と答うることが出来ない。私達の心は濁っている。汚れている。常に動揺を極めている。濁った水には濁った

色の影しか映らない。動揺せる水に映った影は、すべて砕けて完全でない。私達は万象を如実に縁ぜんが為

には、まず自己の心を静めなければならぬ。澄まさなければならぬ。清浄にしなければならない。

 私が田舎の床屋に行ったとき、最初に私を侮辱するものは、そこの鏡である。ふと何気なく向こうを見ると、

口の大きい鼻の突き出た赭面の化物が私を睨んでいる。吃驚して頭を動かすと、今まで小さかった耳が突然

兎の耳のようになって顔半分が歪んで見える。さらに今度は俄に頭が長くなって寿老人のようになる。かくて

様々な顔が顕れて、私をさんざんに侮辱する。そしてそれがことごとく私の顔だということを告げる。私はとても

じっとして見ている訳には行かない。私は遂に顔を背けずにはいられない。それをじっとして見ているということ

は私には堪えられない苦痛である。私は、とてもその一つの顔をも、真実の私の顔だと信ずることが出来ない

のである。

 鏡は物の姿を真実に映し出すためのものである。それが一時にこう様々な姿を示して、それがどれも同じ私

の姿だといったとて、それがどうして信ぜられよう。何時拭うたともわからない、真っ赤に曇ったしかも凹凸の甚

だしいこの床屋の鏡は、実際腹立たしいものである。しかし、これが現実の私達の心の象徴ではあるまいか。

事実のものはそれほど動きもしないのに、鏡の中の影のみは実に千変万化を極める。そして見てさえ苦悩の

姿をあらわすのである。私達もまたちようどそれと同じように、自分の心の鏡に映じた様々な矛盾せる影のた

めに常に苦しんでいるのである。

 信とは、かくのごとき影をそのままに真実なりと思うことではない。心の穢濁、心の動乱を拭い去って、澄浄不

動の心相の内に如実の万象を味識することである。信とは影の問題でなくて心そのものの問題である。凡夫は

単に影にのみ囚われるが故に、凡夫の心を識と名づくるに反して、信によりて達せられたる最後究竟の心相、

すなわち仏果の心を大円鏡智と名づくる。ここに智とは知識の謂れでなく覚証の義である。故に仏教において

は常に信を以て菩薩修行の根底となし(五十二位の始めは十信位である)、『華厳経』には「信は道の源、功徳

の母なり」と言い、龍樹菩薩は『智度論』に「仏教の大海には信を以を能入とす」と言ったのである。

 この意味から言えば、釈尊の正覚もまた信と言い得る。釈尊が菩提樹下において初めて正覚を成ぜられたとき

の心状を説いて、華厳では海印三昧と称している。海印三昧とは、大海に万象の相を印する定心の意で、釈尊の

心を海に喩えて言った言葉である。釈尊の心が、あたかも山間の大湖のごとく一点穢濁の影を止めず、一片の

微波だも生ずることなくして、澄浄に、静寂に、久遠真実の相を呈したとき、その心の内に初めて宇宙万有の事

理をさながらに体得し、心と法と能縁所縁相契うて、いわゆる心境相応、理智冥合の証に住したところを海印三

昧と言ったのである。してみると釈尊のこのときの心状は、言うまでもなく信の状態であったと言わなければなら

ぬ。もっとも、菩薩修行の道程を時間的に論ずる場合には、信は因に属し証は果であるから、信は始め、証は後、

と前後に引き離して言うのは当たり前であるけれども、しかし、心そのものの上においては、信を離れて証はなく、

証は信の上にのみ成立し得られるのである。

 しからば、心を澄静ならしむるというこの信の定義は果たして何を意味するかというに、言うまでもなく、それは

心が自己本然の相に復帰することの意に外ならぬ。鏡はあらゆる曇を去り、表面の凹凸を平にすることによりて、

ますます鏡のまことの性質があらわるるがごとく、私達の心は、あらゆる思想の差別的束縛から逃れて、すべて

の不純なる情緒を捨て去ったとき、そこに初めて自己久遠の如実の相に還るのである。これを名づけて信と言う。

しからば仏教にいわゆる信とは、畢竟自己が自己本然の真実に生き得た心の状態を言うに外ならぬのである。

 さらに信の内容について今少しくその説明を考察してみよう。『成唯識論』六の始めには、信を釈して三種の差

別を挙げている。すなわち、信には一に実有を信ずると、二に有徳を信ずると、三に有能を信ずると、この三種の

内容が含まれていると言うのである。ここに実有を信ずるとは、その信の上に味わわれたる一切諸法の事理そ

のものは、決して虚偽でなく迷妄でなく、真実のものであらねばならぬと言うのである。二に有徳を信ずるとは、

徳とは物本具の性質を言うので、すなわち物の属性というのとほぼ同じ意味である。それで有徳を信ずるとは、

前に挙げた真実の諸法に具する種々の性徳を信ずることで、論文には「広く仏法僧の三宝において、その真浄

の徳を信忍する」ことだと釈している。三に有能を信ずるとは、諸方の性徳は、ただそれが性徳として諸法の内に

あるだけでは要をなさない。その性徳は、必ず外面にその作用となって、それ自らを実現するものである。物の

作用とは、畢竟その物の内にある属性が現実に表現することに外ならぬ。それで法の性徳を信ずるのは、他面

から言えばその法の作用能力を信ずることであらねばならぬ。それで有徳に次いで有能を信ずるということを挙

げたのである。これも論文には「一切の世出世の善の上に、深く力ありて能く得し能く成ぜんと信じて希望を起こ

す」ことだというように釈している。法の真実の性徳は、それがすなわち善であって、その善なる性徳にしたがって

行くところに、そこに真実の道がある。故に法の有能を信ずるとは真実の道に立つことで、それはすなわち、まこ

との希望に生きることである。

 これは、恐らく知についてもまた言い得ることだと思う。物を知るということは物の実在を知ることで、物の実在

を知ることは、物の性質を知ることである。しかして物の性質を知ったのは、すなわちその物の作用が知られた

ことである。この点から言えば、信はすなわち真実の知であるとも言い得る。ともかく、信の内容をインドでは、

こういうように見ていたのである。

 馬鳴は今日まで大乗仏教の始祖だと信ぜられて来たのであるが、彼は『大乗起信論』において、大乗の信

という上に立脚して、全くこの思想の上に大乗の教義を説明している。彼はまず初めに「法あり能く摩訶衍(大

乗)の信根を起こす」と言って、その法を解釈するに「法とはいわく衆生心なり」と言い、その法の内容すなわち

義を示すに体相用の三大を明かしている。体大とはすなわち法の実体で真如のことである。相大とはその体

大のうちに具するところの無量の性徳性能のことで、用大とはその性徳性能の実現、すなわち真の意味にお

ける現象そのものを言うのである。大乗の信とは、畢竟この三大を自己そのものの内に覚証することに外な

らぬ。しかしてこの三大が如実に実現せるもの、それがすなわち仏であり如来である。故にこの法を体大の

上からは真如と言い、相大の上からは如来蔵と呼んでいる。

 ここに馬鳴が法と言ったのは、単に万有を諸法という場合の法とは意味が違って、人がそれによりて真に

生き得べき真の実在を名づけて法と言っているのである。仏教において法という語にはいろいろの意味が

あって、あるいは法則、理法、真理等の意にも用いられ、あるいは単に教訓、説法、教法等の意にも用いら

れ、あるいはまた万有、現象、原子、本体、実体等の意にも用いられている。俱舎の七十五法、唯識の百法

というがごときは、原子または万有というほどの意を有し、仏法僧の三宝とか普通に仏法とか言う場合は、主

に教法の意を表し、また法身仏など言うときの法は真理、真如の義を表しているのである。また法境など言

う場合は、すべて吾人の主観に対する客観的事物を総称して法と言っている。かように種々の意に用いら

れてはいるが、しかし、もと法という語の宗教的の意味には少なくとも規範的救済的の意義が含まれている

のである。古来、法を釈して、多く任持自性、軋生物解と言っているのは、対意的意義にもとれないことはない

が、それよりも寧ろ宗教的意義に見た方が、法の義としては適当であろうと思う。すなわち任持自性とは、虚

妄でなく真の性徳を具有する実在の法という義で、軌生物解とは、その法こそ私達に真の知解を与えて、私

達の魂を生かしむるものであるという義であろうと思う。ここに物というのは事物のこととしても解せらるるが、

これは衆生すなわち私達のことを表した文字であると解した方がよいようである。支那の曇鸞大師が、如来

を実相身、為物身と分かって、衆生の為にあらわれた仏身を為物身と申されたように、物という語は衆生の

ことにも用いらるるのである。そこで軌として物の解を生ずるとは、私達がその法の性徳に順応した場合、私

達の魂は初めて真の知解を得て、生の救済を実現するのである、という意であろうと思う。かくのごとく、私

達がそれによって初めて真実の生に蘇生することの出来る真実の道を呼んで法と言うのである。今馬鳴が

法と言ったのは、恐らくかくのごとき意味であろうと思う。かように見て初めて「衆生心」といった語も一層意味

深きものとなるのである。すなわち馬鳴の意によれば、私達の魂をして真実に生かすものは何であるかと言

えば、それはすなわち私達自身の魂の本質たる久遠真実の心霊である。私達はこの法を自覚して、この法を

自己の生命として、初めて真の生に生きることが出来るというのである。彼はこの法の自覚を呼んで「摩訶衍

の信根」と称している。しかして、その信の内容を明かすに、法について体相用の三大を挙げたのである。

 これを前の『成唯識論』の信の解釈に比較するに、全くその意を一にする。すなわち今の体大は実有にして、

相大は有徳、用大は有能に当たるのである。

 かくのごとく、仏教では信の内容を三種に分かって説明しているが、これは大いに味わうべき説であると私

は思っている。殊に宗教的信仰の内容としては、当然この三方面が具備せらるべきはずである。もしこの三面

が無かったならば、それは決して生命の信であるとは申されない。まことの生命は真の実在すなわち実有の

ものであると共に、またそれは意思としての実在でなければならぬ。意思は内面的には有徳であって、外面

的にはすなわち有能のものである。この三つのものが同時に一自覚の上にあらわれたとき、それは真実の信

と言い得る。浄土他力教において信の対象たる如来の本願(『大経』の中の四十八願中、第十八の本願)を見

るに、やはり至心、信楽、欲生我国の三心が挙げてある。親鸞聖人はこれをまず如来心の上について、至心

はすなわち真実の心、信楽は衆生救済の心であって、欲生我国はその大悲心が衆生の胸に徹到してあらわ

るる大悲回向の心であると言い、さらにこの如来の三心が、衆生の心に顕現したるときは、至心はすなわち自

己の生命として回向されたる至徳の名号で、信楽はその名号の功徳を信ずる心、欲生はその名号の功徳に随

順してその最後究竟の理想すなわち往生成仏の果に向かって生きんとする希願の心であると言って、この三心

が如来の上にありてはすなわち衆生救済の一願心であり、衆生にありてはすなわち真実の信心であると釈せら

れた。『教行信証』におけるかの有名な三一問答がすなわちそれである。これは信仰表白の文字としては誠に

巧妙を極めたもので、その意の幽遠にして、その味わいの深刻なる、実に古今独歩の表白である。苟も真生命

に生きんとする人々は、是非とも、意を潜めてその深意を味わわれんことを熱望する。

他力信仰は、かくのごとき内容によって、それが真生命の信仰となっているのである。けれども、単にそれを

概念的にのみ味わうとする場合には、多くはそれが一方にのみ偏しようとする。例えば、如来を単に実在的に

のみ味わうとする人々は、ややもすると、如来を真如とか本体とか真理とかいう風に考えて、すべて存在の

事実の上に恩寵を語ろうとする。また救済ということにのみ重きを置く人々は、徒に救済の実感ということのみ

に憧れて、自己の生活そのものから離れようとする。また本願を目的にのみ見ようとする人々は、ひたすらに

往生成仏ということのみを主張して、信の現実味をさらに求めようともせぬ。かくのごときものは、決して真実の

生きた信仰とは言われぬのである。真実の信仰は必ずや、至心、信楽、欲生の三心を全うしたるものでなけれ

ばならぬ。この三心が、ただ一つの真の生命として自己の全生を統一し進展せしむるものであらねばならぬ。

如来も本願も往生も、ただ一の信として自己の中に動いているのでなければならぬ。かくて初めて自己は信に

生き得たと言い得る。けれども、これはもちろん信の内容を分析的に発表したもので、信そのものは、この三つ

がただ一つのものとして動いて行くところに意義があるのである。それを直接に発表するということは到底不可

能のことである。けれど、もし強いて言ったならば、それはやはり親鸞聖人の用いられた帰命の二字であろうと

思う。帰命は真生命に対する全我の帰投であり、随順であり、救済であり、復活である。それは生の最終で

あって、また同時に生の第一歩である。無自覚の生の解脱であって、同時にまた真実の生の回向を意味する。

私は親鸞聖人のこの帰命の信仰において、初めて真実の生の道を味わうことが出来るのである。