四、 真生命の自覚 自己を現象のうちにのみ求むるのは間違っている。自己は表れたるものだけでなく、未だ表れざるも のでもあることを知らねばならぬ。自己は表れたる一面の外に、必ず表れんとする一面を具有するもの である。換言すれば、表現すると同時に表現せんとしつつあるものである。生はこの二面の自覚の上に 成り立っている。もし生が単に表れたるもののみであって、表れざる一面の自覚がないならば、それは 真実の生であるとは言われない。自己において真の生命とは、この表現せんとしつつある自己を言うの である。 かくのごとき自己が如何なるものであるかは、定義によりて決めることは出来ない。それは未だ何等 の形相をもとっていないからである。それはただ内に自己の生命力としてのみ感得せられうべきもの である。それが如何なる形式の下に表現せらるべきであるか、それさえ私達にはわからない。もし 何等かの思想の形式によりて、かくのごときものと考えてみたところで、考えられたものはやはり相 だけにしか過ぎないので、生命力としての何物をもそれによりて示すことは出来ない。力の内容は ただ力として直感せらるるより外に道はないので、思想や現象の相によりては到底指示することの 出来ないものである。殊に生命力にありては、よしそれが現象の上に表現したる場合ですら、それ は現象そのものではなくして、遥かに現象以上に表れているのである。もとより生は現象の形式を 離れては存在し得ない。しかし生そのものは、現象からは遥かに以上に表れていなければならない。 ここに生とはすなわち表現せる生命の謂である。それゆえ、私達は到底自覚されたる生命を、思想 や言語で発表することは出来ない。 けれども、この生命の自覚がなかったならば、生は遂に無意義なものとなってしまう。生命の表現 でない生は真実の生ではない。してみると、私達の平常の生活は果たして真の生と言い得るであろう か。もしそれが真の生であったなら、私達はすでに生の意義を把握しているわけである。私達はただ 生命表現の努力に専注して、何等聊かも他を顧みる必要はないわけである。そこにはたとえ苦悩が あっても、かかる生活の上の苦悩であるならば、苦悩そのものが私達にとりては非常に意義あるもの であるからして、私達は決してその苦悩から逃れようとしてもがく必要はないのである。否、むしろかか る苦悩の中に、自らの生の実現を楽しむことすら出来るかも知れない。けれど私達は、決してかくのご とき意味で苦しんでいるのではない。私達は常に生活によりて、自己が裏切らるることのために苦しん でいるのである。私達の生活は通常、生命としての自己が生の自己たらんとするというよりも、むしろ自 己の生命が生活そのもののために圧迫せられつつある状態にある。私達の生活は、真の意味におい て私の生活と言い得ないようなものである。それはただ私という存在が客観的対象の刺激に応じて現 したところの、受動的対外的の姿勢動作に過ぎない。ただに外部の行動のみならず、内部における精 神作用に至るまでも、ことごとく受動的のもののみで満たされている。そこには何等独自の主たる生命 力を認むることが出来ないのである。かくのごとき生活は、私達が無自覚でる間は、当然自分に相応せ るものであって、少しの矛盾をも感ぜないけれども、一度自己が覚醒した暁には、最早到底かくのごとき 生活をそのまま継続して辿るということは不可能なことである。何故ならば、かくのごとき生活は、自己 そのものの本性と根本的に矛盾しているからである。こうしたところには、自己は遂に自己であり得ない からである。それゆえ、一度覚醒したる自己は、真実の自己たらんとして、自己そのものを求むるように なる。かくて自己は自己の本源に遡って、自らの生命力に復活せんことを熱求するに至るのである。 けれどこういう場合に、私達は最も注意を要する。永い間私達は無自覚の安逸を食ったが為に、やや もすると、この熱求の態度を捨てて、いつの間にか求安の態度に陥ろうとする。自己の求むる生命力の 何物であるかが判然わからないために、永く熱求の態度を続けることが出来ずして、さまざまに自己の 思想によりてその最後の境地を想像し、早くも熱求の苦悩から逃れて、安価な落ちつきに腰を据えよ うとする。かくて再び夢の生活に入って、現実の救済から遠く隔離してしまうのである。さは言え、一度 目覚めたる彼の魂は決して永く夢の生活に安住していることは出来ない。彼はしばしば現実のために 裏切られて、楽しい夢から覚まされようとする。しかも彼は全然夢から覚めることが出来ずして、夢と現 実との間に魘されたる生活を辿って行くのである。彼は再び現実に帰らねばならない。 私達は通常、自己は安慰の生活を目的としているように考えているけれど、それは全く欺かれたる 考えである。真の自己は決して安慰を欲しない。それはただ力の生活を欲求する。もし真の自己に 快哉を叫ぶことがあるとすれば、それは力の上の快哉である。活動に伴う愉悦の情である。苦悩を 離れての愉悦にあらずして、むしろ苦悩の中の愉悦である。それは私達の極めて平凡な生活につい て考えてみてもわかることである。私達は平常生活にありて、徒に活動なき単なる快楽を追及してい るようであるけれども、一度現実にかくのごとき快楽が与えられた場合には、私達は到底それに満足 しておることが出来ない。活動なき安住は、私達にとりてはかえって苦痛である。それはただ、追及せ られ想像せられることにおいてのみ快楽であって、現実には決して快楽ではない。私達の真実の心は、 決してかくのごとき快楽を要求してはいないのである。私達の真実の心は、如何なる意味においても、 決して奴隷となることを欲しない。よしそれが無上の快楽であったにしても、それが奴隷的である限り、 私達の心はそれに満足することが出来ない。私達の真実の魂は、苦しくとも常に生の主たることを求 めている。徒に安静の生活を欲するのは病める魂である。力ある健全なる魂は常に活動の生を欲す る。彼はただ活動の内にのみ自己を実現することが出来るからである。禅家にいわゆる「隨処に主と なる」ということは、魂が常に統一の主体として生を営むという意において、生命のまことの叫びを表し た言葉である。 私達は決して安住の生に欺かれてはならない。どこまでも、真生命に対する熱求の 態度を続けて、真の自己の本願を実現することに向かって進むべきである。私達にとりては、この各 自の真生命こそ唯一の生の道で、この道を外にして私達の真に生き得る道はない。 しからば、如何にして私達はこの道に達することが出来るであろうか。これは極めて重大な問題で ある。重大ではあるが、到底一定の答えによりて解決することの出来ない問題である。古来、如何に 多くの聖賢がこの為に血涙を絞ったであろうか。しかし、如何に聖賢の多くが血涙によりてその道を求 めたにもせよ、そは畢竟聖賢各自のものであって私達のものではない。私達はやはり、私達自ら各自 にその道を求むるよりほか致し方はないのである。けれど、私はここに一つ注意しておきたい。それは 私達がややもすると、ただ目的のみを価値あるものと思って、その目的に達するまでの過程に価値を おかないということである。私達は決して最後を急いではいけない。目的を忘れるということは悪いけれ ど、目的を失わざる限り、それに到るまでの求道の生活も、また最も尊いものであることを思わねばなら ぬ。それは真の意味において宗教の生活である。私達は、よし一生の間に真生命に触れずして終わっ たにしても、ただその真生命に向かって進んだという点において、立派に生の価値を味わうことが出来 るのである。 宗教において信仰を求めんとする人々が、ただ一途に信仰を獲るということにのみ意を注いで、自己の 真実を反省することを忘るるがために、徒に信仰という概念のために苦しめられて、真の求道に生きるこ との出来ないようなのは、全くこの求道の価値を知らざるに基因しているのではなかろうか。たとえば、 親鸞聖人のごとき偉聖をみる場合でも、聖人が二十九歳のとき、法然聖人の教えによりて初めて感得 せられたという他力信念のみを抽象して、それを直ちに自己の上に持って来ようとする。そしてそれ以前 の血と涙との生活のごときは、全く要なきものであったかのごとくに捨ててしまって顧みないのである。 聖人にとりては、二十九年間の血と涙との求道の生活があって、初めてかの他力の信念が自己の生命 となっているのである。親鸞聖人の宗教生活は、二十九歳以後ではなかった。それは実に九歳の出家 から始まっているのである。私達は、聖人が血と涙とによりて感得せられた聖人の真生命たる他力信念 を、雑作もなく聖人の生命から引き離して、血も涙もなき自己の魂を、その中に眠らせようとする。かくて 果たして自己の魂が救われ得たと言い得るであろうか。私は決してすべての人に向かって、聖人と同じ ように二十九年間の修行をせよと言うのではない。聖人の生活は聖人自身の生活であり、私達の生活 は私達自身の生活である。私達は、聖人の弟子となることを望む前に、まず自分自身であらねばならぬ。 客観的に聖人を崇敬することの代わりに、まず主観的に聖人に接触しなければならぬ。七百年前の聖人 を讃嘆するよりも、むしろ現実の聖人に帰敬しなければならぬ。七百年前の聖人はすでに死せる聖人で ある。現実の聖人は、今我が心の内に、我が魂と同じ魂に生きつつある聖人である。私達は、自分の魂 の律動の中に、聖人の魂の律動を聞くことが出来る。真実の聖人は、常に私と同一の歩調を以て私の魂 の力となり、私の魂を導きたまうのである。 |