三、 自己とは何ぞや 釈尊は無我説を主張して、人は五蘊仮和合のものに過ぎないと教えられた。けれど、それは自我が 全然無いという意味ではなかった。五蘊和合の組織作用の外に、固定せる我が有ると執着せる妄見 を打破せられたのである。普通人々によりて考えられる有ということは、時間的に不変に固定せる存 在を意味するからして、かくのごとき意味の存在は事実に違反せるただ空想的な概念のみのもので あって、真の存在は、変化流動の作用として現れたる現象そのものの内に認めらるべきものである ことを示されたのである。かの「有の見」とか「無の見」とかいう、常に仏教上において邪見として排斥 せられている見解のごときは、全くかかる概念的の思想に囚われたる妄見をさして言っているのである。 釈尊は、かのバラモン教に説くところの幽玄なる意味の絶対精神、すなわち梵のごときものですら、これ を現象の事実を離れて、概念的に固執することを極力否定せられたのである。人は飽くまでも事実に生 きなければならない。私達は、事実を概念的に見ることによりて事実の真を失うとともに、自己みずから が自殺する。すべての概念は事実を示すものではあるけれども、事実そのものは概念とは違っている。 概念は事実を固定的に写したものであるからして、事実の真に触れようと思えば、どうしても概念だけ に止まっていてはならない。釈尊の破斥せられたのは自我の概念である。概念的の自我である。釈尊 は多くの人々の考えているような常一主宰の自我を排して、現に生活せる個人について、これを分析的 に五蘊、十二処、十八界の教えを説かれたのである。 五蘊とは色受想行識の五蘊で、色とは物質にしてすなわち吾人の身体、受は感覚、想は思想、行は 精神的または肉体的のすべての行為、識はすなわち精神作用である。人はすなわち、この五種の作 用の結合統一せるところに名づけられたものであって、この他に、別に人の霊魂というような固定した る特殊の存在物があるのでない。自我とは畢竟、この統一に外ならぬというのが釈尊初期の説法であ った。しからば、その統一作用は如何なる形式によりて表れているかというに、それはすなわち認識の 作用である。認識とは、客観的事象が主観的作用によりて識別せられることで、それを明らかにしたの は十二処十八界の説明である。十二処とは六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)、六境(色、声、香、味、触、法)、 十八界とはそれに六識(眼、耳、鼻、舌、身、意)を加えたものである。この中、根と識とは主観で、境は すなわち客観である。単に主観客観の分立を示したのが十二処であって、それをさらに詳細にしたのが 十八界である。十八界によれば、私達の生活は識が根によりて境を分別縁慮することによりて営まれて 行くものである。かくのごとき作用が絶えず統一的に流動しつつ進み行くところに自我の観念は生じたの である。これは極めて簡明素僕な教えではあるが、しかし釈尊の真意は、ここに明らかに了解せられる ではないか。 近代著しく覚醒し来ったのは自我の観念である。今まで永らく客観にのみ囚えられていた自我が一時に 覚醒して、あらゆる客観的束縛から脱して、自己みずからに生きんとする思潮が表れて来たのは、人類生 活の向上進展にとりて最も祝福すべきことだと思う。けれども、せっかく覚醒せる自我も、真実に自我の真 生命に触れて、真の意味における復活を成し遂げることに向かっての努力が欠けていたならば、恐らくは 前にもまして、一層悲惨なる自我の死滅を来すかもわからぬ。もしそうなれば、人類の生命にとりては最後 である。 見よ。今や生命なきすべてのものは破壊せられつつある。宗教であれ、道徳であれ、すべて社会にあら われたる形あるもので、生命のないものはことごとく破壊し尽くさねばやまぬ状態である。かくて人々はす べてのものの上にまことの生命を求めて喘ぎつつあるのである。けれど、私達は反省しなければならない。 私達が真に求めているところのものは、外的生命ではない。一切のものの上に見出さるる生命ではない。 私達は私達自身の生命に生きなければならない。私達の求めているものは、私達自身の生命である。 社会の生命でも、道徳の生命でも、宗教の生命でも、文芸の生命でもない。自己みずからの生命である。 私達は自己の生命を求むることによりて、真の社会を欲し、真の道徳を欲し、真の宗教を欲し、真の文芸を 欲しつつあるのである。私達の要求は外に向けらるべきでなくて、内に向けらるべきである。私達はまず自己 そのものから反省してかからねばならない。私達の自己と呼んでいるものはそもそも何ものであるか、私達 は果たして真の自己を知っているのであろうか。これは今の私達にとりては非常に重大な問題である。決し て軽々に看過せらるべき問題でない。私達は覚醒の眼を、まずこの点に集注しなければならない。かくばか り重大な問題を今まで軽々しく看過し来ったが為に、私達は真に生きることが出来なかったではないか。客 観的束縛から逃れんとして戦うのはよろしい。生命なきものを破壊するのもよろしい。けれども、戦闘や破壊 が私達の真に生きる道ではない。私達は常に内に建設の努力を怠ってはならない。 自己の考察の足らない人々は、自己と聞けば、直ちに自分の本能や欲情のごときものを肯定しようとする。 そしてこれ等のものが自分のうちに本有的に存在するという事実から、事実は直ちに真なりという公理の下に、 放縦なるすべての行為を是認しようとする。かくすることによりて彼等は、せっかく目覚めたる自我の真の要求 を捨てて、再び無自覚の生活のうちに自我の魂を滅ぼしてしまうのである。この点は大いに注意を要する。内 的要求のない生活は真の生活ではない。単に事実に生きるということだけが生の本義ではない。生ということ の上には、常に根本的統一の力が働いていなければならない。この根本的統一力がすなわち私達の自我である。 本能や欲情のごときものも、もとより私達のうちに起こった事実には相違ないが、しかしそれは何れも部分的 に働いているある種の内的活動に過ぎない。私達のうちには、これ等の外にもまだたくさんな内的活動が存在 する。そしてそれ等のものは、何れも客観的刺激に応じて起こったもので、言わば外的なものである。私達に はもっと深い根本的な自我それ自らの為の要求が働いていなければならぬ。私達自身の心の自我は、この 要求のうちに認めらるべきものである。例えば、私達にとりては、菓子が食いたいというのも事実であれば、 また胃を害するから食わない方がよいと思うのも事実である。思うまま快楽に耽りたいと望むのも事実である が、そういう望みを卑しんで、苦しいけれどもっと真実な生を辿りたいと願うのも事実である。私達の内面には こうした種々な事実があるが、私はそれらの事実を同時に肯定するわけに行かぬ。何故ならば、それ等の 事実は実際互いに矛盾し格闘するからである。私は私の生活を可能ならしむる為には、これ等の事実のうち で、一を否定して一を肯定しなければならない。私の生活は、私の内なる多くの事実を選択取捨することにより て営まれる。私の自己はむしろこの選択取捨のうちにあると言い得られるのである。 たとえそれが私の内部に起こった事実であるにもせよ、単に事実であるというだけで、それが私自身ではあ り得ない。それ等の事実は––それは私の外部に起こった事実についても同じく言い得ることであるが––私によ りて選択取捨せられることによりて、初めて私自身となるのである。肯定せられなければ自己でないというわけ はない。否定されたものでも、それが自己によりて否定されたということにおいて、私の自己であり得る。自己 は肯定のみから形成せられるものでなくて、否定によりても形成せられているのである。肯定せられたものは、 肯定の相において、否定せられたものは、否定の相において自己である。自己は肯定と否定の二つの相を有 する。この二つの相の上に自己は実現しているのである。 実際私達は、何を肯定し何を否定するかということにおいて、自分みずからを実現する。肯定され否定されると ころの事実そのものが直ちに自己ではなくして、自己はこれ等の事実の上に表現さるべきものである。故に私 達の内に起こる種々なる事実は、それがそのまま自己ではなくして、それによりて自己が実現する為の材料に 過ぎない。私達はこれ等の事実を方便として、自己みずからを実現することによりて自己の生を成ずるのである。 すべてが自己実現の材料となったという点において、これ等の事実は自己に統一せられたと言い得る。生の統 一とは、畢竟かくのごとき意味での自己実現に外ならぬのである。 生活上における苦悩は、多くの場合、生の分裂から生ずる。私達は常に生の根本的統一力、すなわち真の意 味における自我そのものの自覚を有せざるが為に、互いに矛盾せるさまざまの内的事実に攪乱せられて、生の 不統一に苦しむのである。自己が実現すべき生命力を有せずして事実の奴隷となったとき、自己は遂に自己た ることを得ないで苦しむ。そこに真実の生はあり得ない。自己なき苦悩は、真の意味において生の苦悩ではない。 生の苦悩は自己実現の苦悩であらねばならぬ。自己実現の苦悩は生の統一に対する苦悩である。それゆえ、 真に生の統一に悩む人は、常に真の自己を把持せんことを欲する。しかして真の自己は、実現すべき生命力の 自覚のうちにのみ見出さるべきものであるからして、真の自己を求むるということは、畢竟ずるところ生命力の 要求に外ならぬのである。 |