二、    生存の意義



 私達は誰でも生きているという。石や瓦のように、単に此処にあり彼処にありと言わるべきものでなくて、

魂によりて生活しつつあるものである。言葉を換えて言えば、単なる存在でなくて、生存せるものである。

 水は絶えず流れている。けれど私達は水を生きているとは言わない。雲は常に動いている。けれど雲が

生きているとは誰も思わない。植物はあるいは生きているように思われるかも知れぬが、私達はまだ植物

において、真実の生を語る訳に行かない。何故であろうか。植物に対しては、私達はそこに自己意識を認

むることが出来ないからである。生きているということの意味には、自己意識の存在が必要である。けれど、

それだけではまだ足りない。

 小鳥は腹一杯に歌うている。獣は思うがままに駆け回っている。私はこれ等のものに対して、真に羨ましく

思うことがある。私も小鳥のように心の底から歌ってみたい。獣のように心のままに行動してみたい。けれど、

私にはそれが出来ない。何故といって、私にはいろいろな考えがあって、それを邪魔するからである。何故

私達は、かように様々なことを考えねばならぬのであろうか。人目を気遣ったり、自分の体裁を思うたり、

要にもたたぬさまざまな考えのために、いつまでもいつまでも囚えられて苦しまねばならぬというのは、何と

いう惨めなことであろう。世の中にこんな馬鹿気た苦しみをしているものは独り人間のみである。人間のみが、

他のすべての生物と違って、思考の能力を所有している。そしてその能力の為に、彼は苦しまねばならぬの

である。

 旧約聖書によれば、人は始め神によりて造られて、エデンの楽園におかれてあったが、悪魔の蛇に誘惑

せられて、智慧の樹の実を食ったが為に、遂に楽園を追われて、堕落の苦境に陥ったのだという。これは

ある意味において真実を語っている。私達はこうまで苦しまなくともよいわけである。私達は、すべてのもの

を考えねばならないようになっている。単に外界の事物に対してばかりでなく、自己の内面に関しても私達

は考えずにいられない。そして、その考えられたることは、大概は私自身に対して何等かの束縛を強めるの

である。私は全然考えずに生きて行くことが出来たら、どんなにか幸福であろうと思うことがある。私はこうし

た気持ちから、鳥や獣を羨ましく思うのである。

 けれど私の思考は、直ちにこのことを否定する。私はやはり思考を離るることが出来ないのである。

 私は鳥や獣を羨ましくも思うが、といって私は、鳥や獣になりたいとは思わない。私はやはり苦しくとも、思考

の能力を失いたくない。たとえ思考によりて苦しむことはあっても、思考そのものを悪いものだとは思わない。

悪いどころか、思考こそ、人間にとりて唯一の大切なる能力であると思うのである。

 人は単に外的の刺激に対して感覚作用があるというだけにおいて価値があるのではない。さらにそれ以上に、

それ等の刺激や感覚を制御し統一する作用において、生の価値を有しているのである。人にとりて生きるという

ことは、人生のすべてを自己によりて統御することに外ならない。換言すれば、すべてのものの上に自己みずか

らを実現するということである。

 私達は生まれて六七歳までの間は、ただ外界の刺激に生きているだけであるが、これ等の刺激は、いつか

私達の内部に自我意識を目覚めしめる。ここに初めて人生ということが始まるのである。かくて目覚めたる自

我意識は、さらに人生のあらゆる刺激に対して、単に受動的の位置におることが出来ずして、自己みずからに

よりて、これらすべてを制御し統一せんとする能動的の態度をとる。この能動的態度の上に、思考の作用が

起こるのである。故に思考は、魂が人生のさまざまな事件に対して、これを自己みずからのものたらしめ、それ

によりて自己みずからを実現せんとする作用に外ならぬのである。けれども、すでに外的の刺激によりて目覚

まされて、外的統一に向かって動き出した私達の魂は、遂に自己みずからを反省することを忘れて、ひたすら

に外的のみに思考を注ぐようになった。かくて、いつか生活の根本義から離れた私達の魂は、かえって外的

人生のために束縛せられて、自己のための思考によって、かえって自己みずからを滅ぼすような、矛盾せる

生活に堕ってしまったのである。智慧の樹の実を食ったことが悪魔の誘惑ではなかった。けれども、智慧の

樹の実の為に堕落したことが、悪魔の誘惑であったのである。けれど、私達はいつまでも堕落の淵に沈んで

いることは出来ない。堕落の苦悩は遂に私達の魂に反省を与えて、再び自己みずからの問題に目覚めしめる。

ここに生の問題は、さらに新たなる問題として私達の前に提供せられる。真の生活はこれから始まるのである。