一、 生の問題 すべての客観的問題<じぶんいがいのもんだい>から離れて、真実に自分自身の生活ということを思うとき、 私達にはただ生の問題が残るのみである。 多くの人々は自分が生きているということについては、未だかつて疑って見たことすらない。生まれた ときから自分はいつも生きているという自覚の下に生活して来ているのである。何故に生きているのか、 そんなことはこうした人達には問題にならない。ただ生きているから生きているのだ。そうした漫然たる 理由の下にただ生きているという気持ちだけを保持しているのである。 強いてその理由を求むるとき、人々はこう答える。現に我々はこうして働いているではないか。家の為 を思うたり、国の為を思うたり、あるいは名誉の為、子孫の為を考えたり、いろいろ社会の問題に携わっ て思慮画策をめぐらしている。それが生きている証拠ではないかと。 なるほど、そう聞いてみれば、一応そこに何等の疑いも無いようであるが、しかし私達には、そうした 簡単な答えで満足することは出来ぬ。もっと深い「あるもの」がある。それは私達の衷心からそのことを 裏切ろうとする。家の為だとか、国の為だとか、そういう「為」という言葉が果たしてどれだけ私の生の内 容を価値づけているのであるか。何故に私は「為」ということの中に生きねばならないのか。「為」が生で はない。思慮し行為することが生であるというならば、思慮行為は如何なる思慮行為でも、それは生と言 いうるのか。よしそれが、すべて生であるとしたところで、私達の衷心には生に対する選択の要求がある。 ある生を捨てて、ある生にのみ生きようとする要求がある。この要求が強くなれば強くなるほど、生に対 する不満の情もまた痛切に現われて来る。私達は、生活しつつ、しかもなお生きているということを感ず ることすら出来ないほど、生の問題に苦しめられるようになる。生きていると言いながら、全く生を失った 状態に悩むのである。ここに至っては、生ということは、ただ思慮行為だけでは意義がない。それよりも もっと以上に、生そのものの内容として、内面的に生を意義づける何物かが、私達の自覚のうちに獲得 せられなければ、満足することが出来ない。 国の為とか社会の為とか言うけれども、そうしたすべての「為」ということも、押しつめて考えてみれば、 すべて自己の生に対する自覚内容として、初めて意義あるものであって、自己の生に対する自覚を離れ ては、畢竟何等の価値も見出すことが出来ないものである。このことは、後に論ずるつもりであるから、 ここには詳しくは申さぬが、ともかく、人生のすべては、自覚の光に照らされて初めてその意義を与えら れるものである。自己の生に対する自覚が深くなれば深くなるほど、人生の価値は高められる。社会の 為に尽くすのも、それが直ちに自己の生きる真実の道でないとしたならば、如何にしてそれが自己の生 と言い得られようか。私達が職業の為に働いているのも、家の為に心配しているのも、子孫を思い、人を 愛するのも、すべてそれが真実に自己の生きる道であってこそ、初めて私の生と言い得られるのである。 自己を離れて一切は零である。すべての問題は、それがただ他の問題として取り扱われている間、それ は決して自己の問題ではない。自己の問題でない問題に囚われている間は、私達は真に生き得たとは 言われない。私達は、まず自己に帰らねばならぬ。そしてすべての問題を自己の問題の上に生かさねば ならぬ。生の根本問題は何であるか。自己にとりて真実の問題は何であるか。自己が真実に生きうる道は 如何。私達は、しばらく人生のすべての問題から離れて、自己の内、生の上に思いを凝らさねばならない。 静かに耳を内面に傾けて、自己の生命のまことの声を聞きとらねばならない。 すべて人生に忠実なる人々よ。自己に忠実なるは、人生に忠実なる所以の道を忘れざれ。 自己を愛することを知らずして、果たして真に人生を愛することが出来るであろうか。私達にとりて人生 とは、畢竟<ひっきょう>客観化されたる自己の生の内容に外ならぬ。外界に投射されたる自己そのものが、 すなわち私達の人生である。それであるから、私達が人生を愛するのは、すなわち私達の生そのものを 愛することであらねばならぬ。人生の改造とは、自己の生の内容を新たにすることを措いて外に意味は あり得ない。私達が人生の為に尽くすというのも、つまるところは、自分の生の内容の為に努力すること の外に意味はない。それであるから、私は今、生の意義ということにおいても、その価値の標準は外部 に求めらるべきものでなくて、常に内部に所有せらるべきものであることを信ずるのである。私にとりては、 この内的価値の標準がすなわち人生の価値を定むる根本原理である。言葉を換えて言えば、私の内生活 を意義あらしむるものが、すなわち人生全体の意義を定むるものである。さらに換言すれば、自己をしてま ことの自己ならしむる真生命の光に裏付けらるることによりて、初めて人生はその意義を表すのである。 あたかも太陽の光が万象に映ずる色彩によりて自己みずからを実現し、万象はまたその光の色彩を反 映することによりて自己の存在を現実ならしむるがごとく、私達の生命は人生のあらゆる形式を借りて自 己みずからの生を実現すると共に、人生のすべてはまた生命の表現として初めてそれが人生たる価値を 得るのである。光なくしては世は永遠の闇であるがごとく、生命を離れては人生は畢竟無意義である。 されば、私達が生存するに当たりてまず考うべきは、生命の問題である。私達は人生のことを考うる前に、 まず自己の内生を省みなければならない。自己の内生は、果たしていかなる生命によりて統一されつつあ るか。自己の内生に現れたる自己の生命は何であるか。自己は如何なる生命によりて生きつつあるか。 人生のすべてを意義あらしむべき真実の生命は如何。自己にとりてただ一つの真実なる生命、それは如 何なるものであって、またそれは如何にして実現せらるべきものであるか。一言にして言えば、真の意味 において私達は如何に生くべきかという問題、これは私達にとりて、何は措いても、まず第一に重要な問 題である。私達は何よりも前に、この問題に向かって思いを注がねばならない。それは解決せられても、 せられなくても、単に問題としてだけでも、常に心に懸けていなければならないほど、生に対して重要な 問題である。何故ならば、この問題の上に立って、初めて生は意義あるものとなるからである。この問題 を失うたとき、私達の生は滅びてしまう。生命の叫びさえ感じ得ないほど麻痺したる魂に、真実の生のあ ろうはずがない。かかる魂の辿り行く道は、すべて虚偽の道である。かかる魂によりて語らるる言葉は、 すべて空虚の言葉である。その行為のいかに立派に、その声のいかに力強くあるとも、かかる魂により て説かれたものは、たとえそれが道徳であっても宗教であっても、そこには何の権威もあり得ない。すべ てこれ等のものは、内容の真実を欠いだ皮相のみのものに過ぎない。 人生において、あらゆる真実は生命の真実である。私達は、常に内省によりて生命の真実に生きること を怠ってはならない。 |